飯沢耕太郎『私写真論』/筑摩書房

スーザン・ソンタグをはじめとして所謂「写真論」的なテキストはいくつか読んできたが、これほど撮影者―被写体の関係に踏み込んだテキストは初めて。これは恐ろしく刺激的な本である。『私写真論』とは掲げられているが、実際には飯沢耕太郎による四人の写真家の紹介、解説、批評である。四人の写真家達―中平卓馬深瀬昌久荒木経惟、牛腸茂男―のうち私が知っていたのは中平卓馬アラーキーこと荒木経惟のみである。彼らがどのような人物でありどのような写真家で、どのような写真を撮ったのか、ということについては本を読めばいい。共通しているのは彼らは生きるためにカメラを・・・写真を必要としたということだけ。それは職業的な理由というだけでなく、自分の主義主張をカメラを通じて表現するため、あるいは自分の存在理由として、自分と世界を繋ぐものとして、生きているとうことの確認のため・・・・・・かれらは写真家であり写真家として名を成した人物たちだが、いっぽうで「そうせざるをえなかった」人々である。
問題はつねに距離感だ。撮影者とカメラと被写体の。撮影者の顔、手、脚、あるいは匂い。写真にはあらわれない。しかし撮影者不在のその写真は、撮影者について多くのことをおしえてくれる。リラックスした笑顔を向ける子供。並んで神妙な顔でこちらをみている家族たち。情交の最中の女。不在どころの話ではない。写真を読むものは、撮影者の眼球に入り込んだにひとしい。あるいは脳みそにだ。
私も写真を撮る・・・しかし趣味でありアマチュアである。とても彼らと並べられるような存在ではない。写真にかける覚悟がそもそも違う。考え方もそうだ。
飯沢耕太郎はこの本のなかで大して私写真について論じてはいない。だがしかし紹介された4名の写真家はいずれも只者ならず、その作品なり生き方を追うだけで十分以上に私写真論しているのである。
ちょっとでも真面目に写真をとってみようと思ったアマチュアには必読の本だと思う。