ネットウォッチ板という闇

さて私が2ちゃんねる(以下2chと略記)の、熱心なユーザーであることは既に述べたとおりですが、同時にまた2chに対して複雑な感情を抱かざるを得ないということもまた事実なのです。その理由のひとつがネットウォッチ板の存在で、私はこのネットウォッチを言う行為を2chという巨大掲示板で多数の人々が行うことを容認できないのです。ネットウォッチとは文字通り、ネット上に存在する事件や奇妙な現象やおかしな人々を観察するという行為です。これは個人的に行うぶんには全く悪いことではありません。人間に好奇心というものが宿っている以上、そういった行為は人間の本質的なものであると思うからです。一方でまた掲示板で情報を交換し、意見を出し合う、つまり掲示板を通じたコミュニケーション。これもまた他人とコミュニケートしたいという人間の本質的欲求によるもので決して悪いものではありません。しかしネットウォッチという行為と掲示板というコミュニケーション手段が結びつくことによって、個人的な観察行為という枠組みが崩壊し、その背後から巨大で不鮮明な意志とでも呼べる何かが浮上してきます。
意志というよりも新たな構造とでも呼べば適切でしょうか。私はこれを上手く名付けることができませんでした。強いて表現するならば「自動的な悪意」でしょうか。掲示板に参加する誰にも悪気はないのに、現象の構造自体が、その掲示板上に悪意とでも呼ぶほかない意志を出現させる、ということです。
出典を覚えていなくて申し訳ないのですが、過去に目にしたことがあり、私が非常になっとくしている人間原理に「人間は異常者(天才や異常な経験をした人々を含む)の異常な話を喜んで聞く」というものがあります。ネットウォッチの対象が個人の言動を対象とするとき、この原理は非常に強く働いていると言えます。そこにあるのは「好奇心の満足」であったり「新しいモノを見る驚き」であったりします。
一方でネットウォッチの対象となるのは、どういった事件、現象、人物であるのかを考えてみましょう。そこには何かしらウォッチャーたちの好奇心を刺激するものがあるはずです。例えば対象についての「驚き」「不可解さ」「(ネタとしての)面白さ」などがあります。そしてウォッチャーたちは語りあいます。「これは一体なんなのか」「一体どういうことなのか」。分析と解釈、そして定義づけが行われ、「これは・・・である」とかあるいは「これは・・・ではない」等など、ウォッチャーたちの中でも様々な意見が出され、またその意見についての意見が出されます。ネットウォッチ板のスレッドはこうして作成され、成長し、やがて消滅するなり次のスレッドへと意見交換の場を移します。
しかしながら誰もが真剣に分析や解釈を行うわけではありません。その真剣さや、分析の技術、意見のレベルについては様々な度合いがあり、一種の混沌を生み出します。この混沌こそがネットウォッチ板に存在する「自動的な悪意」に繋がると考えています。つまり、様々な度合いを許す書き込みがある程度の量になると、ある種の偏向を持つのではないか、それがすなわちウォッチ対象に対する悪意、いいかえるなら攻撃性を生むのではないだろうかということです。書き込みは誰でもが無責任に行うことができます。ウォッチ対象に対して真摯な態度を取る人もいるでしょうし、悪罵を浴びせるような人もいるでしょう。そういった書き込みがある程度の量、蓄積されることによって一種の無責任な中傷文章のようなものができあがるのではないかと想像しています。
ウォッチャーたちは名前を持ちません。数も定かではありません。可能性として言えるのはウォッチャーとは多数の無名の意志であるということです。これに対してウォッチ対象は主として個人であることが多く(実際には組織が対象であったり、そもそも明確な対象がないこともありますが、ここでは個人を対象としたネットウォッチを問題として考えています)、その意志の多数性には大きな差があります。
ウォッチ対象が、自分がウォッチ対象であることに気付かない場合は良いでしょう。しかしウォッチ対象が、自分がネットウォッチの対象となっていることに気付いたとき、そこには多数の意志対単一の意志という構造が生じます。ウォッチ対象はどのような感情を抱くでしょうか。普段どおりの生活をしていたつもりが、気がついたら舞台の上に上がっていて無数の目に晒されていた、という状況を考えてください。まず、感じるのは「驚き」それから「恐怖」あるいは「怒り」ではないでしょうか。
あるウォッチ対象は、その場から逃げ出すでしょう。ウォッチ対象となった原因を消去し、例えばブログやホームページを削除して、「自分がウォッチ対象となっている」という現象から逃れることでしょう。しかし一方でそういった原因を消去できない場合もあります。さらに、原因を消去せず、むしろその場に留まり、ウォッチャー対ウォッチ対象という状況を作ってしまう人もいます。その場合、ウォッチ対象は多くの場合、攻撃性を剥き出しにしてウォッチャーや2ch自体を攻撃し始めます。何故かといえば、そのとき抱いている感情が「怒り」である、あるいは「自分がウォッチ対象となっている」という現象の原因を消去するには、ネットウォッチ板のスレッドか2ch自体を消去せねばならないという考えに至っているためだと思います。
これは極端な考え方だとお思いでしょうか。しかしマスメディアでも最近よく取り上げられるEメールマナーの認識の違いで、情報の発信者と受信者の間に誤解が生じ、トラブルになるという事例を考えてみてください。これは発信者と受信者がそれぞれ相手に抱いている「距離感」についての認識の違いが根本的な原因にあると考えています。親しみをこめて書いたつもりの文章が、くだけ過ぎていると受け取られたり、礼儀を尽くした文章が慇懃無礼を受け取られてしまったりと、文章によるコミュニケーションはそれだけで一種の課題を孕んでいるのです。
ウォッチャー側がウォッチ対象に抱いている「距離感」と、ウォッチ対象がウォッチャー側に抱いている「距離感」はどのような違いがあるでしょうか。私のさほど長くは無い2ch利用の経験から、仮説としての原理を取り出してみると
・ウォッチャー側からウォッチ対象→ウォッチャー単体の「距離感」は基本的に遠い。
・ウォッチ対象からウォッチャー側→「距離感」は近い。
ウォッチャー側からすると動物園の動物を眺めているような、客観的で冷静な視点を保っていることが多いと思われます。しかしながらそれは、ウォッチャー単体で考えた場合です。ウォッチスレッド全体で考えると、むしろ距離感は「近い」と考えられます。それは何故か。スレッドに書き込まれる意見は様々で、その意見は「距離感」に基づいて書かれているのですが、その「距離感」自体にも度合いがあります。ウォッチ対象に対して、非常に近い「距離感」で書き込むウォッチャーもいるということです。そうしたウォッチャーが一定以上の割合を占めることで、スレッド自体の「距離感」が「近く」なるのではと考えています。つまり
・ウォッチスレッドからウォッチ対象→「距離感」は近い。
・ウォッチ対象からウォッチャー側→「距離感」は近い。
という、ウォッチャー単体の認識と、ウォッチスレッド全体の認識との間には微妙なずれが生じているのです。このずれこそが構造としての「自動的な悪意」を生みだすのです。「距離感」がお互いに近いということは、ある場合においては「親密さ」を意味します。しかし「親密さ」は感情においては「愛」「友情」だったり「怒り」「憎しみ」であったりします。この場合、ウォッチ対象がウォッチャー側に抱くのは「怒り」「憎しみ」です。「距離感」が近く親密である分、その感情はより一層激しいものとなります。
一方でウォッチャー単体は、ウォッチ対象に対しては基本的には遠い「距離感」を維持しています。スレッドに書き込む文章も一部のウォッチャーを除いて、その「距離感」に基づいたものになるでしょう。しかしスレッド自体の「距離感」はウォッチ対象に近い。ここでウォッチャーとウォッチ対象の間には一種のコミュニケーション不全問題が横たわっているのです。


ということをふと考えました。