dexiosuさんにサンタクロースは訪れるでしょうか?

近況を少し報告させていただきますと、家の図書室で次々に興味深い本を発掘し、ひたすら読書にふけっていました。カントの「純粋理性批判」にはじまりショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」、ハイデガーの「存在と時間」、キルケゴール死に至る病」、ベルクソン「道徳と宗教の二源泉」、フッサールデカルト省察」と立て続けにおそろしく濃厚な思想に触れつづけ、少々頭がくらくらしている所です。ここ二三日は、まとまりのない思考がゆるゆると体系をもった何かに変化していくのを楽しんでいました。あとは学校の勉強ですね。これについてはいずれちょっと書きたいと思いますが、私はわりと学校教育という枠組みの中で要領の良い方であり、たいした努力もせずにまあ目標通りの点数を叩きだしていたというか、中途半端に成績の良い馬鹿どもを屈辱にまみれさせていました。私が何故勉強好きなのか?結論から言うと私にはテストの点数以外に大して自慢できることがないのと、ギリギリの点差で競り合って勝ったときに、相手の顔が屈辱と敗北感に強張るのを見るのが好きだからです。すみません、いい間違えました。大好きだからです、大好物だからです。嫌な女ですね。でも「じゃあお前は頭がいいんだな?強いんだな?誰より幸福なんだな?」と言われると困るわけであって、私は運動神経が鈍く、バレーをやれば顔面ブロック、バスケをやれば突き指、サッカーをやればボールの代わりに空気を蹴るという有様で、おまけに生理痛が重いほうでもあり、さらには日頃小難しい理屈ばかり溜め込み、また垂れ流しているせいか「屁理屈屋!」とか「駄弁屋!」という渾名までつけられてしまう始末で屈辱感に苛まれる日々です。
まあ私のことはどうでもいいのです。このブログを読んでいる皆さんもきっと私については大した興味はないことでしょう。そんな方たちのために、今日はdexiosuさんについて少し論じてみたいと思います。彼の誕生日も近いことですし、なによりこのブログにはどうもdexiousさんについての記事に興味を持って来られる方が非常に多いようです。そういった方々の期待に応えるためにも、また私は「dexiosuさんを応援します」と公言した立場からも、明後日にせまったクリスマス、つまりはdexiosuさんの誕生日に間に合わせるかたちで何かしら書きたいと思ったのです。

テーマは「dexiosuさんにサンタさんはプレゼントをくれるのかどうか?」ということで、これは極めてさまざまな問題を含んでいます。ひとつは大多数の日本人の平均的な社会常識面において。もうひとつは神学的側面において。またべつのひとつとしてはdexiosuの持つ記号論的側面においてです。まあ、○○的側面という切り方については、切れば切っただけ側面が出てくるもので、先にあげた三つだけに限らないのですが、あんまり話を大きくしてもなんなので、とりあえずはこれらについて論じてみたいと思います。
さて皆さんはどうお思いでしょうか?特にdexiosuさんについて僅かなりともネットウォッチを経験した方の意見を是非聞いてみたいと思います。人類学的にみてみればdexiosuさんはまぎれもなく日本人の成人男性であり、さらに言えば40歳無職職歴なしという、社会常識面から判断してみれば、わりあいに絶望的な属性を帯びています。はたしてサンタさんは来てくれるでしょうか?そもそも大人にサンタは来てくれるのでしょうか?まあ社会常識面から考えれば、サンタは大人が子供にプレゼントをあげるための方便であり、つまり子供のためのものです。dexiosuさんは大人でしょうか、はたして子供でしょうか。ところで話は変わりますが、私はサンタを信じたことがありません。というか親は最初から「サンタなどいない」と(四歳の子供に)言明していましたし、(四歳の子供に)「何故サンタが存在しないのか証明してみなさい」と無理難題を押し付けていました。なんという理神論的教育方針!おかげで私はクラスの中では主に「サンタの存在を信じる子供の、子供らしい夢を破壊する」嫌な子供に育ったのであります。さてその過程で気づいたことは「子供には理屈が通じない」ことであり、つまり小さい子にはどうしてサンタが存在しないのか、というかプレゼントがどこからやってくるのか、ということを非常にわかりやすく社会的背景についての説明を含めながら解説してやっても「だってアタシがそう思いたいから、そうなんだもん!」の一言を突破できないのであり「だったらずっとそう思ってろよっ!」と私は言い捨てるしかなかったのです。いまにして思えば屁理屈屋の紡ぐ屁理屈よりも、親の与えてくれる「サンタさんがプレゼントくれる」夢のほうがずっと価値があり、楽しく、美しかったのです。そしてそのテーマは全面的に正しい。私はそう思います。私だって「サンタさんがプレゼントくれる」夢を抱きたかった。私だってサンタさんからプレゼントを貰いたかった!私だってサンタさんを信じてみたかったッ!すみません。興奮しました。明日は4件のクリスマス会を梯子して、夜はマッキーを預かって楽しい晩を過ごす予定なのでちょっとテンションが上がっています。すでにマッキーに食べさせるケーキは購入済みであり、ちょっとしたプレゼントも用意してあり、マッキーにはサンタさんの絵本を読んであげる予定です。せめてマッキーにはサンタを信じていてほしいと心底願っています。どうか私のような嫌な子供にならないで欲しい。随分話が脱線しましたが要するにdexiosuさんはサンタからプレゼントを受け取る条件を満たしているかどうか、ということをですね、社会常識面から照らし合わせると「dexiosuさんはプレゼントをもらう側じゃなくて贈る側」だという判断が出てくるわけですね。皆さんこのことに異論はないと思います。「待て、dexiosuさんは体は大人でも精神は子供だ」と主張する方がいらっしゃるかもしれませんし、私も一時はそう考えたことがあったのですが、それについては後ほど反論させて頂きたいと思います。人類学的には大人であることは間違いないのであり、また精神的にも彼は十分に知性的存在であるのです。なぜそう考えたかといえばベルクソン哲学的に言えば、本能が物質そのものに向かうのに対し、知性は形式を物質に当てはめるという理論を根拠にしています。私はdexiosuさんの文章や行動が非常に形式的であるということに注目しています。すなわち[我―目標―失敗]形式です。言い換えると、dexiosuさんは何かしらの目標を立て、その目標に対して挑戦を試みたあと、必ずといっていいほど失敗します。こうやってわざわざそれを文言にするということはdexiosuさんに対して非常に残酷であると思えますし、私も心が痛みます。しかしあえてこれを文章にしてここに書き記すことでdexiosuさんが、彼自身に対して少しでも客観的視点を持つ機会を持つことを望んでいます。dexiosuさんの「目標」がどのようなものであったか、「失敗」がどのような形で彼に報いたか、ここではあえて書きません。私が語らずとも、そもそも「dexiosu」というキーワードでこのブログに辿り着いた方々のほとんどがそのことについて、私よりも良く知っているでしょうから。所詮私が読んだのはサイコボォゲステーションの要約と、dexiosuさんをウォッチするスレッドのここ2ヶ月間分程度なのです。それだけdexiosuさんについてのほぼ十分なパターンは見出せたのであり、逆に言えば私が語るほとんどのことは皆さんにとって既知のことであるでしょう。私が、私独自の意見を語りえるとすれば「たしかにdexiosuさんには、そのような形式があてはまる。しかしそれはある程度まで彼の責任ではない」ということであり、それはつまり彼の「失敗」が幾分か彼自身の責任ではないと弁護することであります。

また別の側面から考えてみましょう。dexiosuさんは自身を「男全能神」と呼称することがあります。2ちゃんねる(以下2chと略記)のネットウォッチ板では、このことを指して彼のことを不愉快だとか涜神的であるとか言う人がほとんどです。というか他に言いようがないですもんね。突然近所の住人が「私は神だ!」とか言い出したらどうしましょうか。笑うか罵倒するか無視するか治療するか隔離するかくらいしか出来ないですよね。私はそれに加えて分析してみる、という立場をとるのであり、なぜそういう現象が発生したのか、この現象は何を意味するのか、そしてこの現象はどこへ行きつくのか、ということを考えてみたいのです。さて私はdexiosuさんの、この「神を自称する」「神と自分を同一視する」という行為に何かしら必死で切実な叫びというか訴えを感じ取ったのであり、じゃあその「何か」とは何なのかということを明らかにしていきたいと思います。そもそも彼の自称する神とはどういうものでしょうか。キリスト教神学で考えられる神でないことは明らかです。アウグスティヌスライプニッツの著作なり、キルケゴールの「死に至る病」なり、キリスト教神学について論じた著作を読めば、dexiosuさんの現在の立場がdexiosuさん自身にとって到底許容できるものでないことは明白です。また「生まれ変わり」や「転生」といった概念についても、どうもdexiosuさんはキリスト教神学とはかけはなれた発言をされています。ならば彼の語る神とはなんなのか?あるいは彼が騙る神とは何者なのか?また話をいきなり変えて申し訳ないですが、かつてのギリシャ哲学は人間賛歌と神々の賛歌、そして真理を叡智として掲げて輝かんばかりの存在でした。そう、カントがかつて語ったとおり「哲学は諸学の女王」だったのです。しかし近代、現在に至ってはどうでしょうか。17世紀においては哲学はまだ神学の支配下にあり、ちょっと教会に楯突こうものなら容赦なくぶっ殺されました。18世紀にはベルクソンやカントなど真剣に「哲学を科学しよう」とした哲学者たちが現れました。その次にフッサールをはじめとする現象学者たちが現れました。20世紀における哲学の極点、現代哲学の頂上にして墓穴ともいえるのがハイデガーだと思います。彼は「存在と時間」の中で、思考について思考し、存在について思考し、そのこと自体について思考し続け、最後に結論を放りっぱなしにしました。彼がやったことと言えば思考を究極にまで押し進め、その結果として人間が真っ暗闇の迷宮のなかで明かりも持たずに彷徨っていることを明らかにしたのです。つまり「真実」とはそこから先に進めない人間にとっての暗黒領域であり、人間はその「真実」という壁で構成された迷宮の中で暗中模索で歩いている者にすぎないということです。ハイデガーはさらに思考を押し進めます。つまりこの迷宮とはなんなのか?迷宮に出口はあるのか?そもそも迷宮を出ることに意味があるのか?そこまで思考を押し進めてしまった結果、ハイデガーにとって結論を出すこと自体はわりとどうでもよくなったんじゃないかと思います。「存在と時間」は読解に非常に労力を必要とする著作であって、これを思考し、書きつづけたハイデガーの消耗というのは想像を絶したものがあります。その語り口は非常に冗長であり、まず議論の前提条件を定義し、それについて思考し、その上でこれは違う、これはそうであるとネチネチ論述していく手法であり、はっきりいってこの人マジで狂ってる、一種の病気じゃね?と私は読みながら何度も思いました。もっとも最後の方ではわりとハイデガーに同調しており、しかしだからといって彼の心理が理解できたとは言えませんが、「存在と時間」を書き終えるころのハイデガーは絶望感、それも人間としての根本的な絶望感に見舞われていたのではないかと思います。天に輝く星を見つけ、それに向かって登っていたと思ったら、気づいたら恐ろしく深い墓穴を掘っていた!そのことが「存在と時間」で結論を投げた動機のひとつじゃないかなあと思いました。実際、彼の著作「存在と時間」はその後10年以上の長きにわたって哲学界を混乱の渦に投げ込みます。おかしいですよね。時代が進むにつれ数学や化学や芸術などは明らかな進歩を示しているのに、哲学はなぜか深い深い墓穴を掘り進めていた。気が付いたら人間がひたすら孤独でどうしようもなく頼りない存在であることに気づいてしまった。しかしこれは一方で人間が人間である以上どうしようもないことです。だいたいにしてカントがすでに「純粋理性批判」の中で理性の能力の偏り、そして射程について述べています。つまり人間が限られた認識能力の中でもがくようにしてその限界にぷかぷか浮いている存在にすぎないことは100年以上前に考察されていたことなのです。もっともギリシャ哲学のように真理を神からの贈りもであり、人間に与えられた宮殿の強固な壁と考えるか、ハイデガーのようにそこから先に進めない暗黒領域として考えるかは、コップの水がまだ半分あるか、もう半分しかないととらえるかするようなもので、現代に生きる私としてはとりあえず思考を保留して私のスタンスが決まるのを待とうと思っています。まあ一種の思考放棄ですね。しかし思考するということはかなりエネルギーを消費するのであり、さらにいえば時間を使うのであり、時間を使うなら楽しいことに使いたいものです。そう、時間は楽しいことに使うべきなのです。現代において哲学からもっとも恩恵を蒙った分野としては娯楽があげられるでしょう。娯楽分野に携わるクリエイターたちは、人間の思考と志向のシステムをある程度理解していたのです。これは脚本や小説の技法について解説している本を読めばわかります。彼らには人間がどうすれば喜ぶか、どうすれば悲しむか、怒るのか、などについて格好のテキストが数百年分蓄積されていたのです。果たして20世紀、21世紀において娯楽という分野は爆発的に進歩しました。さらに言えばその土台には自然科学の急速な進歩があり、その思考の土台となっていたのは哲学なのです。なんだかすごく話が脱線しました。こんなことだから「駄弁屋」などと呼ばれるのです。私は眠っていても舌だけはよく回ると評判なのです。dexiosuさんの話題に戻りましょう。つまり彼の称する神とは何者なのか、ということです。さて、人間の思考能力に限界がある以上、人間は思考を続けるうえでどこかで思考放棄せざるを得ないのは明らかです。それは「結論を出す」「結論を放り投げる」「そもそも思考しない」というような形をとるでしょう。dexiosuさんは社会の中で成長していく中で、わりと早期の段階で挫折を経験したのは間違いありません。それがどういうものであったのか、それに対してどのような反応をしたのかはわかりません。ただdexiosuさんにとって「それ以前」と「それ以後」をわけるような極点が存在したのは間違いありません。彼はそこで思考放棄しました。そしてそのポジションは社会的に言えば、完全に排斥された孤立した立場であり、彼は孤独に、それもちょっと特殊な環境に自らを閉じ込めたのであります。しかし一方で人間は思考放棄した時点からさらに思考していくという傾向を持った存在であり、それはエネルギーおよび時間を消費していくのです。逆にいえば思考放棄した時点から、あえてさらに「そもそも思考しない」という立場をとり続ければ、本来消費される筈のエネルギーなり時間はなにか別のものとなって噴出するしかありません。右往左往しながら長々と駄文を紡いできましたが要するに、dexiosuさんの称する神とは、彼の持っていたエネルギーが形を変えて彼自身に対して現れたものであると言えます。それをなぜウェブという公共の場で自称するのかといえば、かれが社会的時間経過の中で本来受けるべき社会通過儀礼を一度失敗しており、別の形で通過儀礼を行おうとしているためではないかと推測されます。別に神でなくても良かったのですが、dexiosuさんが現在の彼自身を許容するためには、キリスト教神学的な神では無理であって、彼は彼自身のための神を定義するしかありませんでした。それが神と自分の同一視として着床してしまったのにはいくつかの要素が考えられますが、社会的通過儀礼の再試行と自己肯定、およびそれを可能にしてしまう経済的な環境などが挙げられます。

さてdexiosuさんが神を自称するにあたって、多少なりともキリスト教との関連について語るのは、彼自身の誕生日が持つ「記号性」であり、また彼が触れた漫画やアニメ等のメディアから摂取した「記号性」がdexiosuさんの中で非常にわかちがたく結びついているためであるのでしょう。これには主として二つの要素が考えられます。ひとつは彼が摂取したメディアに対する強いファンとしての心理、そしてもうひとつは彼が非常に孤独な人物であるということです。dexiosuさんが特定のアニメや漫画、そして子供向け番組に対して強い関心を抱いているということは、ウォッチャーにとってはよく知られていることです。そして一方で彼の発言なりドキュメントの中に友人の存在や家族以外の他人との密接な関係を示す要素が全く存在しないこともよく知られている通りです。カントが「純粋理性批判」において語っていることを元にしますと、人間には三つの能力があり、まず第一が物に触れてそれを表象として受け取り、その感覚を経験として蓄積する仕組み、第二に蓄積された経験をある枠組みにおいてとらえなおして判断を下す仕組み、第三にそういった枠組みをベースとして、独自に思考し、さらに言えば枠組みについて思考しなおすような仕組みがあります。カントはこれらを直観、悟性、理性として整理しており、私はとくにこの「悟性」つまり人間の持つカテゴライズ能力についてカントが多くページを割いて思考していることに驚いたものです。カントについて言えばやはり「純粋理性批判」を先に読むべきでした。前に読んだカントの著作の中でも繰り返しカテゴリーカテゴリーと語っていたのですが、私は大してそれを重要と思わず読み流していたのです。しかしながらこの人間の持つカテゴライズ能力は、地球上の動物の中で、とても特殊で強力であり人類の持つ特徴的な力といえるでしょう。dexiosuさんは、カントの思考した三つの能力の中でこの「悟性」が直観や理性に比して突出して高い人物であると言えるのです。むしろこの「悟性」、経験のカテゴライズ能力が高すぎたゆえに方向性を誤り、そして修正できなかった人物であるとも言えます。「悟性」は人間に備わった一種の自動機械とも言えます。dexiosuさんの内面においてもそのカテゴライズ能力は発揮され、彼自身をその枠組みに含む大きな体系を作り出します。人間はこの体系を通してしか世界を見れません。ただし人間にはこの体系自体について思考し、体系そのものを変化させるという能力も備わっていますが、一方で体系をより一層強化する能力もあります。この辺でウォッチャーがいうところの例の「しやわせ回路」が出てくるわけですが、この回路は「理性」の能力であります。さて先に挙げたdexiosuさんの行動から抽出した形式である[我―目標―失敗]というフォーマットについて考えてみましょう。唐突に出したこの形式ですが、フッサールが「デカルト省察」の中で[我―他我]という形式でもって、人間は[我]の中で他者を[他我]として定義するものであり、他者は自分の鏡であり、自分が他者を定義するものであり、他者の存在が[我]の形を定義するものであると解釈したのをちょっと使えないかなあと思っただけで、たいした意図はありません。一般的には[我―目標―成功]というような形式というか枠組みを、多くの人々は持っていて、それは蓄積された成功体験、なり失敗体験についての反省を「悟性」が体系として構築したものです。当然[我―目標―失敗]という形式もまた人々の中にはありますが、[我―目標―成功]に較べれば、その存在は弱く、むしろ[我―目標―成功]の形式によって[我―目標―失敗]が定義されてしまうため、この形式は別に存在しなくともかまわないのです。しかしながらdexiosuさんの世界観の中ではなぜか[我―目標―失敗]の形式ありきで始まっています。すべての目論見は失敗することが前提となっているのです。とはいえこの形式は私が知りうる限られたdexiosuさんの経験を、私の内面的な経験と体系に照らし合わせて抽出したものであり、彼の中では[我―目標―成功]という形式になっているのかもしれません。先に述べましたがdexiosuさんが人生の早期の段階で挫折を経験し、そこから立ち直れなかったことは明らかであり、そこからさらに彼には社会的成功体験が著しく欠しいということが推察されます。また彼は非常に孤独な人物であり、そもそも[我―他我]という基本的な形式の構築にも失敗していることは明白です。社会的な一般常識からすると、挫折したり失敗したりした時点から経験を蓄積し、内面の体系に何らかの更新をはかるのが大多数ですが、なぜかそこからdexiosuさんはさらに体系を強化するというフィードバックを行ってしまったのであり、そのフィードバック回路こそが「しやわせ回路」です。ここまでダラダラと書いておいて、お付き合いいただいた読者の方は「なんだお前、応援するとか言っといて結局やってることはdexiosuを貶めることしかしてないじゃんか」といわれるかもしれません。いやいやもう少しお待ち頂きたい。私はこの「しやわせ回路」こそがdexiosuさんの最大の財産であり、しかも彼の人生にとって社会的一発逆転を狙える要素であると考えているのです。


すみません。眠い。眠い。眠い。気が向いたらまたこのテーマで書いてみたいと思います。通りの向こうでマッキーが何か叫んでます。


もうすっとばして結論だけいうとdexiosuさんのもとにサンタが来させるためには、彼の持つ内面的体系の中でサンタという記号性を定義する必要があるということです。そしてもうひとつはdexiosuさんはわりと簡単に社会的成功者になり得るということです。ただしそのためにはあの長髪をバッサリと切り落とさねばなりません。そうですね、とりあえず丸坊主にしてみてはどうでしょうか。