カント『プロレゴーメナ 人倫の形而上学の基礎づけ』/中公クラシックス

カントというと『純粋理性批判』が有名ですが、これはまだ読んでないのです。『プロレゴーメナ』は『純粋理性批判』を出版後、いろいろと出てきた誤解や批判に対して書かれたもので、「いかにして形而上学は可能であるのか」がその主題となっています。というわけで『純粋理性批判』を読まずに、その後の状況に対して書かれたものを読むのはどうなのかな、と思ったんですが、『純粋理性批判』自体が図書室のなかに見つからないのですよ。父は昔に買ったのは間違いないと言っているので、多分どこかに埋もれてるんでしょう。まあ探してみて、見つかったら読んでみたいと思います。
さてこの本には『プロレゴーメナ』と『人倫の形而上学の基礎づけ』が載っているわけなのですが、これがどういう話かというと、要するに
・『プロレゴーメナ』・・・そもそも形而上学という学問は可能であるのか?
・『人倫の形而上学の基礎づけ』・・・道徳の概念を哲学的に追求することの方法とその限界
ということが主題となっています。
『プロレゴーメナ』でちょっと衝撃的だったのは、カントがいままで学問として一分野を占めていた形而上学に対して「とりあえずこれまでのことは、なかったことにして」あらためて、そもそも形而上学で学問するということが可能であるのか、という問いを発していることです。カントは18世紀の人で、まだ数冊しか哲学書を読んでいない私でも、この人は形而上学が神学などと別れて、学問領域のなかで新たな地位を占めていこうという流れのなかにいた人なんだなとわかります。で、これまで数冊読んできた哲学書、とくに17世紀以前に書かれたものは、はわりと神学の影響下にあった、というか神学に依存した理論展開をしていたことがわかってます。そういったこれまでの状況と、カントが置かれた、これからの状況ということを考えると、この『プロレゴーメナ』はまさに契機の書であり、まさに時代の転換期を担うものであったといえると思うのです。カントは純粋数学と自然学(物理学など?)に対して、そもそも純粋数学は可能なのか?自然学は可能なのか?という問いを発します。そして純粋数学は「感性」によって可能であり、自然学は「悟性」によって可能であり、そして形而上学は「理性」によって可能になると主張します。「感性」「悟性」「理性」といきなり用語が出てきて私は混乱しましたが、文脈で大体把握できましたし、これについての詳細な定義はきっと『純粋理性批判』のなかでおこなわれてるんでしょう。まあ、要するにあらためてカントは形而上学と学問分野についての概念を再構築してみせたわけです。『プロレゴーメナ』は『純粋理性批判』の要約版であり、かつ学問としての形而上学の「序論」として位置付けていたそうです。
一方で『人倫の形而上学の基礎づけ』で問題となっているのは、道徳であります。道徳とはなんなのか。どのような原理なのか。結論から言っちゃうとカントは「それ自身を同時に普遍的自然法則と見なしうるような格率に従って行為せよ」つまり「それが普遍的なルールだとみなしうるような原理にしたがって行為せよ(わかりづらいか?)」と言っています。ただし、それが何故なのかという問いについては人間理性の限界を説き、しかし理性はそれをいずれ理解するだろうと主張しています。
全体的な印象としてはカントって堅い人だなあ、ということで、もうひとつは情熱家なんだろうな、ということです。あと神学の影響を受けてるんだろうなという個所もちらほら出てきますが、カントは徹頭徹尾「感性」「悟性」「理性」で問題を分解していてさすがドイツ人というか理性を全開に働かせている人だなと思いました。なんか、こう、ドイツ人って全員理系っていうイメージないですか?ないですか、そうですか、多分私だけの偏見ですよね。
この本は何回か通して読んだのですが、なかなか理解した気になれません。特に『人倫の・・・』が。別にすっとばして読んでるわけじゃないんですが、気がつくと論理に追いつけなくなっているというか。だから私の今の段階の解釈も結構間違っているかもしれなくて、半年くらい時間を置いてからまた読んでみたいなあと思わせる本です。まあでもとりあえずは『純粋理性批判』が先か。


サキ「パパ、カントの『純粋理性批判』って読んでみたいんだけど」
父「図書室にあるでしょ。随分昔に買ったよ」
サキ「見つかりません」
父「じゃあアマゾンに注文しとくよ」
サキ「あるのに買うなよ!探すよ!」
純粋理性批判』を探すついでに図書室の整理もしたいなあ。